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2010 年 8 月 30 日 のアーカイブ

王監督更迭に反発の歴史

 

何か凄いスキャンダルのように思われるかもしれないですが、広岡達郎氏の回顧録が日経新聞「私の履歴書」にあり、監督の醍醐味を記していたところが大変興味深く感じた。この中で巨人軍の王監督の解任の経緯があり、その監督時代の活躍を思い出したので記録しておこうと思います。若手を指導するのは単なる技術やノウハウの習得ではなく、将来の姿を見据えての指導でお互いに成長することが重要なポイントと思いますね。

巨人から誘い 王監督更迭に反発し辞退

1988年9月に巨人の正力亨オーナーから「王貞治の代わりに監督をやってくれないか」という話が舞い込んだ。使者を務めたのは、早大で私の1年先輩だった岩本尭さんだった。

巨人もついに私を認めたのかと思う気持ちも一部にあったが、喜べなかった。王は長嶋茂雄と並んでONとしてプロ野球の隆盛を導いた功労者。そんな人物を簡単に切り捨てることに反対だったからだ。日本の球団は功労者であるOBに対して、概して冷たい。

私は「監督はできません。日本一になっていないからといって王を更迭してしまうのでは球界の恥になる。王に勝たす方法なら私にはある。そのための協力なら惜しまない」と答えた。

王は助監督として藤田元司監督の下、牧野茂ヘッドコーチとのトロイカ体制で監督学を勉強、1984年から監督に就任した。前年の1987年には日本一は逃したものの、リーグ優勝を果たした。Bクラスは一度もない。長島の第1次政権がそうだったように、コーチに恵まれなかっただけ。そこを私がアレンジすれば十分勝てるはずだった。

ところが、当時の巨人の実質的なオーナーだった読売新聞の務台光雄名誉会長=川上哲治さんのラインで、「広岡がだめなら」と藤田の再登板が決まってしまう。失意の王はその後、ダイエー(現ソフトバンク)に移った。東京・下町の象徴が今では「九州の人」になってしまった。

後日談だが、第1次政権で解任の憂き目にあった長嶋が2度目の監督をやっているとき、監督室で「巨人の監督をいつまでもできるわけじゃない。次期監督を育てたら勇退しろ。おまえがまた変な形でやめたら世間が騒ぐ」とアドバイスした。

「そうですね、誰がいいですか」と問われて「年功序列だと、江川とかいろいろいるけど、純粋無垢なのは原辰徳しかいない」と答えた。それで長嶋は原を野手総合コーチに抜てきした3年後、勇退した。

原には「しっかりやれば、向こう10年間は絶対監督としてやっていける」といっていたものだが、1年目の2002年にいきなり優勝したものの、翌年3位に落ちると、渡辺恒雄オーナー(現球団会長)は「読売グループ内の人事異動と同じ」とすぐに堀内恒夫に代えた。さすがに、このときは長年購読していた読売新聞をいったんやめた。

2006年からの2度目の原政権はよくやっている。昨季までで3連覇。2009年のWBCでも監督として優勝を果たした。

圧倒的な戦力をうまく使いこなしている。しかし、私は5連覇ぐらいしたら、最下位チームに移って挑戦して欲しいと考えている。弱いチームを強くするのは監督の醍醐味であるからだ。

例えば、私の後をついで西武監督になった森祇晶は9年間で8度優勝し6度日本一に輝いている。だが、請われて横浜の監督になったときは1年目こそ、前年と同じ3位だったが、2年目は最下位に落ちて途中降板している。広島を初の日本一に導いた古葉竹識さんも横浜大洋(現・横浜)時代は苦戦して5-4-6位。弱くなったチームを立て直すのは難しいが、それができてこそ名監督の名に値すると考えている。(日経・私の履歴書 8/27)

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